モカシンテレグラフ

日記・雑記 料理とバイク旅の話が多め。NZ思い出話も時々

「老い」に対してできること

書きたいことはたくさんあるのだけど、いかんせん出先なので、ノートパソコンの画面だけだとパソコンに向かうのが億劫になってしまう、特に目が(高解像度ゲーミング14インチなので表示もめちゃ細かくなってしまう。表示倍率挙げて対処してるけど)。これも老い故か。

 

また日本に戻ってから、色々と書くとして、簡単に一言日記、雑記か。

 

ここのところ、どんどん老いていくことを体感している。周りから見れば(たぶん)まだ若い部類なので「またまたー」と、冗談半分に捉えられることが多い。まあ、だいたいその場ではそのまま軽いノリで世間話で終わる。でも、ポイントは世間一般的に実年齢が若いか歳かはほとんど意味がなく、自分の若い時と今の差異がどんどん大きくなっていること、そしてそれを体感・認識することを言いたいわけである。

 

老いていくことへの物理的な準備はいろいろと計画立ててこなしていくとして、なんとなく思い立った、思想的ソフトウェア的な行き着きは、老いに対して自分が(あるいは人類が)できるアプローチは「さみしい老人」になるか「さみしくない老人」になるかの二択に集約されるのではなかろうかということ。アプローチと言うか、認識とそれに対しての努力というか。自分はできれば後者を目指したいので、その努力(自己を顧みる、戒めるとか)を強くしていきたいと思う。

 

ここのところ、自分の感情コントロールができてないなと思うことが多々有って、それを認識してから、上記のような考えが頭の中に湧いてきた。感情コントロールができないというか、コントロールすることを面倒くさいと思うようになった。簡単に言えば広義でのわがままになったというか。広義のわがままに至った理由の一つは、エモーショナルな話ではなく、人生の残り時間が現実的に視野に入ってきて、「残り時間の大切さを重視する=些末なことを我慢している場合ではない」理論のようなものが働いているからだと思う。でも、これは行きすぎれは当然、本当の単なる「わがままでめんどくさい人間」になるわけで、その諸々の思考が一巡した結果として、上記の話に至った。

 

全然、一言じゃなかったな。